【小話】TIMBRES side-A

「ねえ、レイジ!」

強めの語気で、藍は呼びかけた。
藍が見下ろす先には、ベンチに座って上を向いたまま目を瞑った嶺二がいる。
ぱっ、と目を見開いた嶺二は、目の前にいた藍に相当驚いたようで。
「え……?あ、アイアイ?」
たどたどしく呼ばれる自分の名前に、藍は余計にいらついた。


あ、レイジがいる。
藍が気付いたのはその15分ほど前だっただろうか。
仕事のオフを利用して普段なかなか行けないお気に入りのハーブティー専門店へ出向いた帰り道、次の週末に行うライブツアー千秋楽の会場が近いことを思い出し、せっかくだから…と足を向けてみることにしたのだ。
ライブ会場と、対になっているガラス張りの建物の間に差し掛かった時、ふと目線の端に何かが映り込んで、藍は足を止めた。
瞬時にそれが嶺二だと判断できたが、藍はそこから動けなかった。
距離は離れていたが、藍には見えていたから。
嶺二の表情が。

瞬間、藍は自分の思考にノイズが走るのを感じた。

胸がざわつく。何だかむかむかする。
僕は知ってる。レイジが時々、本当に時々、ああいう表情をしている時がある。
そして、あの表情を見ると、僕は無性に胸がざわつくんだ―。

自嘲するように小さく笑った嶺二が、空を仰いだ。
藍はただまっすぐ嶺二を見て呟いた。

「レイジ」

分かってる。分かってるんだ。
この声が「今」のレイジには届かないこと。
そこにいるのに。すぐそこにいるのに。
あの表情の時のレイジはダメだ。自分の世界にしかいないから。

それが分かっているからこそ、藍は余計に腹を立てた。
嶺二にも、自分にも。

きゅっと眉をしかめ、重たい一歩を踏み出す。
ほんの数十歩の距離が、とても遠く感じる。
一歩進むごとに、むかむかする気持ちと共に何か別の気持ちが生まれる。
この気持ちはなんだろう……いや、たぶん僕は知っている。この気持ちをに名前をつけるならば。

そう考えているうちに、藍は嶺二の前で立ち止まった。
空を見上げたまま、目を瞑っている。
「レイジ」
小さな声でそう呟いてみたけれど、嶺二は動かない。
分かっていたことだ。
だから藍は確固たる意志を持って語気を強くした。

「ねえ、レイジ!」

驚いて目を見開いた嶺二は、「いつもの」嶺二だった。
藍は怒った表情を崩さないまま、けれどどこかで自分が安堵していることに気が付いた。
戻ってきた、と思えた。

「ていうか、何でそんな怒ってるの?」
素朴な疑問だったのだろう。
嶺二は何の悪気もなく、むしろ状況をまだうまく把握しきれないまま、藍に尋ねた。
怒ってる……確かに怒ってるけれど。
「…別に。レイジに言う必要ない…」
言葉にすれば、怒り以外の気持ちも認めてしまうことになる。
そう分かっていたから、藍は口をつぐんだ。

過去は、思い出は、僕が欲しがった大切なもののひとつだけど。
レイジは時々、過去を思い出しては「今」からいなくなる。
それが何なのか、誰なのかなんて知らない。知る由もない。
ただ無性に胸がざわついて、むかむかして、その後に思うんだ。

レイジを連れて行かないで。

歌を歌うためだけに生まれてきた僕が、歌を通して出会えた仲間。
歌で繋がっているけれど、僕が生きる意味は、僕がここにいる意味は、歌だけじゃないと教えてくれた仲間。
ランマルも、カミュも、レイジも。
僕が想像し得なかった世界を僕にくれる、大切な仲間なんだ。

ふっ、と嶺二が軽く息を吐く音が聞こえた。
「ごめん、アイアイ」
その言葉に、弾かれたように藍は振り返る。
藍の顔を見た嶺二は、柔らかく微笑んで言った。
「この会場には思い入れがあってね。4人で立つ前に、どうしても一人で来たかったんだ」
ゆっくりと優しく言い聞かせるように話す嶺二の言葉に、藍はただ黙って聞き入っていた。
「でも、まさかそこでアイアイと会うなんてね。びっくりしちゃったけど…でも、そういうことなんだと思う」
「そういうこと?」
思わず聞き返した藍に、うん、と嶺二は一つ頷いた。

「僕がここに一緒に立つべき人は、ランランとミューちゃんと、アイアイ。QUARTET NIGHTの4人なんだって。
 僕は、QUARTET NIGHTの寿嶺二だから」

はっきりと言い切ったその言葉が、永遠にも感じられた僅かな間を支配する。

藍は誰にも気付かれないほどの一瞬だけ口元を緩めると、すぐに呆れた顔をして盛大な溜息を洩らした。
「当たり前でしょ。嶺二、頭でもぶつけたの?それとも…」
いつもの口調で喋ってはいたものの、藍の中にはさっきまで胸の中を支配していた感情はほんの僅かになっていた。

「今」のレイジは、ここにいる。
僕と、僕達と一緒に、ここにいる。

これからもレイジがあの表情をするたびに、それを見るたびに、僕はまた同じことを思うんだろう。
思い出は変えることができない。過去にレイジが出会った人、経験したことは変えられない。
でも、未来は、きっと過去を超えられる。
僕達4人にしか作れない今とこれからがきっとある。

僕達の奏でる歌が、最高の「今」を重ねていくために。
共に戦い、歌い続けていくんだ。

「これからライブの打ち合わせしようよ!」
「は?オフなのになんで?意味分かんないんだけど」
「そもそもアイアイは何でここに来たの?その手に持ってる袋はなに?」
「たまたま近くに来たから寄ってみただけ。持ってるのはハーブティー。レイジも飲む?老化防止だって」
「僕ちんハーブティー飲んだことないけど、老化防止なら飲んでみてもいいよ☆…って、アイアイ酷っ!」

背中に回された嶺二の腕のぬくもりに、藍は言葉にできない心地よさを感じていた。
それが「安堵」という感情だと、藍は知った。